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読書とアウトドア好きな会社員のオフライントーク

『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』ガイ・ドイッチャー

言語が思考に影響を与えるか、というテーマで言語学者が書いた本

 

イギリス人はデジャヴを知らない?

最初にハードカバーで発行されたのが2010年というから、もう10年以上も前になるのか。当時新聞広告をみて欲しいと思ったけど、その時期は長期出張中のホテル暮らしをしてて、立ち回り先の書店にはなく、ネットで注文しようにも送付先をどう指定するか分からず、で結局買っても荷物になるから、と諦めたのだった。少し前にハヤカワで文庫化されたの機にふたたび話題になっていたので、図書館で借りてきた。

 

デジャヴ、という言葉はフランス語のdéjà vu(既に見た)から来ている。日本語では「既視感」とも呼ばれているが、英語はフランス語のdeja vuをそのまま使っている、いわば外来語だ。

大学でプルーストのテキストの講義を持っていたフランス語の先生は、デジャヴを感じるあの一瞬の、かすかな記憶をたぐるような繊細な感覚を、イギリス人は持ち合わせていないのさ、と笑った。

似たような、言葉の違いをお国柄に見立てるジョークは山程あるが、真面目な話としてどうなんだろう?相当する言葉がないことはそれを感知するセンスや能力の欠如に直接つながっているのだろうか?


カナダ人の留学生に、飲み会に私のシスターを連れてきてもよいか、と聞かれた日本人学生が、てっきり彼女がお姉さんと一緒に来るものと思って承諾したら、幼い妹を連れてきてびっくりした、という話をきいたことがある。英語には、日本語の「姉」、「妹」に相当する単語がなく、sisterにelder、youngerなどの形容詞を付けて表現するが、このことから、カナダ人は日本人より兄弟姉妹の歳の順に無頓着だ、と言えるのだろうか?

 

こうした経験から僕は1つの疑問を持っていた。

同じ出来事でも、言語が違えば取り方が変わってくるんじゃなかろうか?

 

虹は七色ではない?

本の前半は色の表現に関連する諸説の紹介。

ホメロスの”葡萄酒色の海”という表現から、古代ギリシア人は色弱だった、という結論を導いたグラッドストーン。世界の各地の少数民族が使う色表現から、人は最近になって色覚を発達させてきた、という主張。色の違いを識別する能力は生得的なものなのか、それとも後天的に生活習慣の中で身につくものなのか?
どうやら、大部分は生得的なもので、どのような種族にも共通するらしい。異なる色に同じ名前をつけて同一視するケースは例外的なケースらしい。

 

言葉が思考を作る?

後半は言葉や文法の決まり事が人の考え方、ものの見方に影響しているか、を具体的な事例と行動実験の成果を通して検証していく。


本の中で紹介されているグーグ・イミディル族の方向表現は興味深い。
彼らは、前後左右ではなく、東西南北で方向を認識、表現した。
「私の前にこちらを向いて座っている男性が、右の手をあげた」
という代わりに、
「私の南側に北を向いて座っている男性が、東側の手を上げた」
と表現する。


方角を正しく認識していなければ、男性がどちらの手を上げたのかという単純な出来事さえも正しく伝わらない。この環境で育った子ども達も5〜6歳でこの方角感覚を身につけるそうだ。この事例は、言葉、表現の習慣が、出来事を認識し記憶する方法に影響を与えている疑いようのない証拠となる。


ジェンダーについての記述も面白い。ここでいうジェンダーとは、最近話題になっているような性別、性的な意味合いではなく、文法的な名詞の分類についての話で、ジェンダーをジャンル、種類と言い換えてもよい。


「昨夜は友達と飲みに行っていた」

という文章は、英語や日本語では、その友達が同性なのか、異性なのかはっきりしない。ところがフランス語では男性の友達なら男性形のamiを、女性の友達なら女性形のamieを使うから、隠すことができない。
女性の友達をamiと表現することは文法的に正しくないというだけでなく、嘘をついていることになるから、万一、事の真相が露見したときは修羅場だ。


フランス語では非生物の名詞も、男性名詞と女性名詞に分けられている。そして名詞につく冠詞や形容詞もそのジェンダーに合わせて変化する。
海は女性、空は男性、太陽は男性、月は女性、といった感じ。
覚えるときは冠詞をセットで覚える。
la mer(ラ メール、海)、le ciel(ル シエル、空)、le soleil(ル ソレイユ、太陽)、la lune(ラ リュンヌ、月)、・・・

ある名詞からどんなイメージを想起させるかを調査すると、ジェンダーによって傾向が見られるという。
男性名詞:大きい、硬い、角張っている、・・・
女性名詞:小さい、柔らかい、丸い、・・・、など

この調査は言葉だけでなく、写真でも同じ傾向になるそうだ。
この事例も、名詞のジェンダー分けが、人の連想記憶に影響を与えている例と言える。


最終的には、言葉は思考に影響を与えうるがその度合は限定的だ、という、一周回って出発点に戻ったような、あまり驚きのない結論になったが、そこまでの過程が面白い。


先人たちの珍説、暴論をユーモアを交えて、時には辛辣に切り捨てる、筆者の自由な筆っぷりが気持ちいい。登場する学者、研究者たちもとてつもなくユニークで、変わったエピソード満載。


明解な文章は著者原文によるところだと思うが、訳も素晴らしいこと付け加えさせていただく。

 

オフライン・トーク

さてと、ここからは、オフライン・トーク

 

言葉の力って凄いな、と思う反面、安易な使い方は危ういなとも思う。

 

ある出来事を言葉にしたら、その人にとってその出来事の意味が確定する。

確定させて白黒つけた方がいいこともある。

気に食わないことがあった時も、言葉にして、ああ俺は今猛烈に腹が立ってるな、と呟いてみると、何だかそれほど大したことでもないな、ちょっと腹が減ってるせいかな、と思えたりするから不思議だ。

 

その一方で、青と緑と黒が混ざったような海の色を見ても、「海は青い」と言われてたら、「青」としか記憶できない。

 

アナログデータをデジタル化したみたいに、曖昧な部分が抜け落ちたら、伝達効率が上がって、記憶領域の節約にもなるけど、それで全部伝わってますか?

 

生の思考や感情を直接やり取りしたり保存できないから、それを言葉に置き換えて、交換、ストックする。

まるで、物々交換から貨幣経済に移行したみたいだけど、お金にならないものには価値がない、ってことになりゃしませんかね?