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読書とアウトドア好きな会社員のオフライントーク

伊坂幸太郎 『フーガはユーガ』

久しぶりの伊坂さん。

副題の"TWINS TELEPORT TALE"が示す通り、双子の瞬間移動(入れ替わり)を題材にしたお話です。



あらすじ

誕生日の日だけ二時間ごとに"瞬間入れ替わり"が起きる、双子の兄弟優我と風我。

二人が入れ替わる瞬間を捉えた動画に興味を持った東京のTVディレクターを相手に、ファミレスで優我が語る、二人の痛々しい過去。

「僕たちは、手強い」

瞬間入れ替わりの”特殊能力”(本人たちが望まなくても起きるのだから、”能力”というより”現象”という方が近い)と言っても、相手にダメージを与える訳でも、自分達が逃げられる訳でもない。ただ相手に一瞬の隙ができるだけ。

そこを上手く利用して、二人が悪漢に対峙していく。

 

感想

「双子の兄弟が一瞬で入れ替わることができたら、どんなことができるだろう?」

この発想はいかにも伊坂さんらしい。

 

そしてその”力”を、子供達へのDV、弱いものへのイジメ、誘拐のような理不尽で容赦ない暴力に対峙させるのも、これまた伊坂さんらしい(というか、いつもの手だ)。

 

複数の事件を繋ぐ伏線、兄弟のあうんの呼吸、勧善懲悪的な爽快さ、最後の場面の余韻と未来への希望を感じさせるエピローグ。

まさに、伊坂ワールド全開、な快作と言える。

 

オフライン・トーク

さてと、ここからは、オフライントーク

この本は2019年本屋大賞にノミネートされていたが、残念ながら受賞は叶わなかった。

(大賞は、瀬尾まいこさんの『そして、バトンは渡された』)

 

僕なりにその要因を考えてみると、

ひとつは、瞬間入れ替わりのアイディアが練り切れていないこと。

設定上の都合で、できることとできないことが決められた感があって、納得感が薄くなった分、物語の説得力が下がってしまったように感じた。

 

そして、もう一つは、二人が対峙する悪がエグすぎること。

DV、いじめ、変態的な性虐待、幼い子供を狙うサイコパスーー

以前の伊坂作品でも扱われた題材ではあるけれど、今回は救いようのない闇が押し寄せてくるようなざわつきが抑えられない。

いつもならば、作品全体を中和する語り口の軽さが、今回ばかりは上滑りして、主人公たちが許せない悪と対決する、というより、ノリでやっているようにも感じてしまう。

二人に巻き込まれる形になってしまったワタボコリ君には同情を禁じえない。

 

物語はハッピーエンド(人によっては、バッドエンド、と受け取るかも知れない)で終わっても、小玉やハルコさんの心の傷は癒やされるのだろうか?

 

もしかしたら、癒やされる訳ないじゃんか、ということがこの本の主題なのかもしれない。



ハインリヒ・ハラー『セブン・イヤーズ・イン・チベットーチベットの七年』

言わずと知れた、ブラピ主演の映画の原作本。ブラピのファンの方には申し訳ないが、原作は映画の20倍は面白い。

 

インドで戦争捕虜となったオーストリアの登山家は、収容所を脱走し、想像を絶する過酷な旅のはてに、世界の屋根チベット高原の禁断の都に漂着する。そこで、若き日の14代ダライ・ラマの個人教師を務め、数年を共に過ごす。

こう書くと、この冒険記の主眼が、ダライ・ラマとの邂逅にあると思うかもしれない。そこがチベットでの暮らしのハイライトであることは間違いないが、この本はハラーの物語であって、ダライ・ラマの物語ではない。

実際ラサでの暮らしは後半の半分に過ぎず、前半はハラーと仲間達が収容所を脱走してからラサに流れ着くまでの逃避行が描かれる。

苛烈な逃避行

この前半部分で既に凄い。
ナチスドイツの威信をかけたナンガ・パルバット遠征隊に首尾よく参加し、新たな登攀ルートを見つけ帰国のためインドで船を待つ間に第二次世界大戦が勃発。

イギリス支配下のインド軍に敵性国民として捕らえられ収容所に送られる。(ちなみにこの時のオーストリアナチスドイツに吸収されていて、ハラー自身もナチス党員だったそうだ)

幾度か脱走を試みては失敗し、仲間達も徐々に脱落していくが、最後の脱走でハラーとアウフシュナイターの二人はヒマラヤ山脈を越えてチベット領内に辿り着く。

役人に滞在許可を求めるものの、体よく扱われインドへ強制送還されそうになるが、ハラーたちは道中ふたたび脱走し、今度は人に見つからないよう昼は隠れ夜間のみ移動する。極度の飢えと渇きに苦しみながら荒野をゆく様子が、時に苛烈で時にユーモアを交えて記されていく。チベットの巡礼の一群や、役人の対応ぶりなどチベット社会の様子もハラーの観察眼を通して活写されていく。

ラサでの暮らし

後半部分ラサに到着してからの物語は、更に興味深い。
ラサのチベット社会に受け入れられて身辺が落ち着いてからは、普通の人々の暮らし振り、食べ物や風習、結婚と家族の構成、身分による違いなど、チベットの様子が描かれる。
若きダライ・ラマの友人兼個人教師となり親交を深めていくが、間もなく中国共産党人民解放軍が「帝国主義的介入からチベットを解放する」と称して侵攻してくる。

国境付近では武力衝突が起きて、圧倒的な中国軍の前に各地の知事は次々と降伏していく。抜き差しならぬ事態に中央政府は国連に援助を求めるものの、国連は「中国とチベットが平和裡に統一されることを望む」という声明でその援助を拒絶。


ダライ・ラマは国外へ逃亡することを決意し、その行程を見届けたのち、ハラー自身もインドへ脱出していく。

ここで描かれたチベットの様子は独立国家としての最後の姿である。

オフライン・トーク

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国外へ脱出した後で、ダライ・ラマ14世は中国から「西蔵地区の宗教的自治を認める」として自治区の首長に就き、全人代チベット民族の代表として常務委員会副委員長の座に就き、その中でチベットの「高度な自治」を求めて活動を続けていたが、チベット独立を求める武装蜂起を機に再び国外へ亡命、現在もインドでチベットの精神的支柱として活動している。


映画についても一言。

ジャン=ジャック・アノー監督、ブラッド・ピット主演の映画は原作とは少し異なる味付けだ。


素朴な人々とのラサでの暮らし、とりわけ好奇心旺盛で聡明な若きダライ・ラマとの親交の中で、荒んだハラーの心が浄化されていく過程が丁寧に描写される。

その一方で、チベット併合を目論む中国赤軍は、スター・ウォーズの帝国軍並みの悪役ぶりだ。
虐殺シーンもあって、中国では上映禁止、監督と演じたブラッド・ピットとアウフシュナイター役のデヴィット・シューリスは無期限の中国入国禁止措置になったというから、もはや笑うしかない。



原田マハ『リボルバー』

アートの舞台裏をフィクションで描く物語は、もはやマハさんの独壇場
本作は『たゆたえども沈まず』で題材にしたゴッホが再び登場

あらすじ

パリのオークション会社で働く日本人、高遠冴のもとに、古びたリボルバーが持ち込まれた
所有者は、それがゴッホを撃ち抜いた拳銃だと主張する

冴と同僚は真贋を確かめるために、拳銃の調査を始めるが、やがて、ゴッホゴーギャンの二人の天才画家と、二人に関係する人物たちの姿が浮かび上がってくる...。

感想

ミステリー仕立てのこの物語の最大の謎は「ゴッホの死は本当に自殺だったのか?」という点だが、もう一つ、どのような経緯でリボルバーが今の所有者に渡ってきたか、という点もある

そこには、タヒチ時代のゴーギャンと地元娘との美しく哀しい愛の物語と、それを語り継ぐ母娘の切ない想いが重なっていた


告白を聞き終えたあとで、冴が語る、
フィンセントもポールも幸せな生涯だったと思いたい、という願いは、そのままマハさんの気持ちなのでしょう
理由なんかなくたって、強くそう願う、という気持ちが迸る文章に、胸が熱くなって思わず涙しました



ミステリーで始まった物語も最後はアートと愛の物語

そこがマハさんらしいですね...。

 

 

オフライントーク

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この小説は「アートミステリー小説」と呼ばれています。

個人的には、アートとミステリーは実はとても相性がいいと思っています。

 

ダン・ブラウンダ・ヴィンチ・コードが有名ですが、マハさんの『楽園のカンヴァス』『暗幕のゲルニカもその仲間に入ります。

アートミステリーでおすすめの小説については、又別の機会に書きますね。

 

作中に、同僚が冴のことを、我が社のウォーショースキー、と呼ぶシーンが何度かあります。

これは、サラ・パレツキーという人が書いた、シカゴの女探偵を主人公にしたハードボイルド・シリーズの主人公の名前です。

V・I・ウォーショースキー、通称ヴィクは、美人の女探偵で空手の達人、毎回危険を顧みない体当たりの調査で、傷つき痛めつけられますが、不屈の闘志と持ち前の鋭さで悪い男たちをやっつける、こちらもとても魅力的なシリーズです。

 

ですが、ちょっと喩えるには違和感が...

ヴィクを知らない人には伝わらないし、知ってる人にはキャラクターのミスマッチ感があってピンと来ないし...

同僚の下手なたとえ、と思うしかないのかなあ....

 

『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』ガイ・ドイッチャー

言語が思考に影響を与えるか、というテーマで言語学者が書いた本

 

イギリス人はデジャヴを知らない?

最初にハードカバーで発行されたのが2010年というから、もう10年以上も前になるのか。当時新聞広告をみて欲しいと思ったけど、その時期は長期出張中のホテル暮らしをしてて、立ち回り先の書店にはなく、ネットで注文しようにも送付先をどう指定するか分からず、で結局買っても荷物になるから、と諦めたのだった。少し前にハヤカワで文庫化されたの機にふたたび話題になっていたので、図書館で借りてきた。

 

デジャヴ、という言葉はフランス語のdéjà vu(既に見た)から来ている。日本語では「既視感」とも呼ばれているが、英語はフランス語のdeja vuをそのまま使っている、いわば外来語だ。

大学でプルーストのテキストの講義を持っていたフランス語の先生は、デジャヴを感じるあの一瞬の、かすかな記憶をたぐるような繊細な感覚を、イギリス人は持ち合わせていないのさ、と笑った。

似たような、言葉の違いをお国柄に見立てるジョークは山程あるが、真面目な話としてどうなんだろう?相当する言葉がないことはそれを感知するセンスや能力の欠如に直接つながっているのだろうか?


カナダ人の留学生に、飲み会に私のシスターを連れてきてもよいか、と聞かれた日本人学生が、てっきり彼女がお姉さんと一緒に来るものと思って承諾したら、幼い妹を連れてきてびっくりした、という話をきいたことがある。英語には、日本語の「姉」、「妹」に相当する単語がなく、sisterにelder、youngerなどの形容詞を付けて表現するが、このことから、カナダ人は日本人より兄弟姉妹の歳の順に無頓着だ、と言えるのだろうか?

 

こうした経験から僕は1つの疑問を持っていた。

同じ出来事でも、言語が違えば取り方が変わってくるんじゃなかろうか?

 

虹は七色ではない?

本の前半は色の表現に関連する諸説の紹介。

ホメロスの”葡萄酒色の海”という表現から、古代ギリシア人は色弱だった、という結論を導いたグラッドストーン。世界の各地の少数民族が使う色表現から、人は最近になって色覚を発達させてきた、という主張。色の違いを識別する能力は生得的なものなのか、それとも後天的に生活習慣の中で身につくものなのか?
どうやら、大部分は生得的なもので、どのような種族にも共通するらしい。異なる色に同じ名前をつけて同一視するケースは例外的なケースらしい。

 

言葉が思考を作る?

後半は言葉や文法の決まり事が人の考え方、ものの見方に影響しているか、を具体的な事例と行動実験の成果を通して検証していく。


本の中で紹介されているグーグ・イミディル族の方向表現は興味深い。
彼らは、前後左右ではなく、東西南北で方向を認識、表現した。
「私の前にこちらを向いて座っている男性が、右の手をあげた」
という代わりに、
「私の南側に北を向いて座っている男性が、東側の手を上げた」
と表現する。


方角を正しく認識していなければ、男性がどちらの手を上げたのかという単純な出来事さえも正しく伝わらない。この環境で育った子ども達も5〜6歳でこの方角感覚を身につけるそうだ。この事例は、言葉、表現の習慣が、出来事を認識し記憶する方法に影響を与えている疑いようのない証拠となる。


ジェンダーについての記述も面白い。ここでいうジェンダーとは、最近話題になっているような性別、性的な意味合いではなく、文法的な名詞の分類についての話で、ジェンダーをジャンル、種類と言い換えてもよい。


「昨夜は友達と飲みに行っていた」

という文章は、英語や日本語では、その友達が同性なのか、異性なのかはっきりしない。ところがフランス語では男性の友達なら男性形のamiを、女性の友達なら女性形のamieを使うから、隠すことができない。
女性の友達をamiと表現することは文法的に正しくないというだけでなく、嘘をついていることになるから、万一、事の真相が露見したときは修羅場だ。


フランス語では非生物の名詞も、男性名詞と女性名詞に分けられている。そして名詞につく冠詞や形容詞もそのジェンダーに合わせて変化する。
海は女性、空は男性、太陽は男性、月は女性、といった感じ。
覚えるときは冠詞をセットで覚える。
la mer(ラ メール、海)、le ciel(ル シエル、空)、le soleil(ル ソレイユ、太陽)、la lune(ラ リュンヌ、月)、・・・

ある名詞からどんなイメージを想起させるかを調査すると、ジェンダーによって傾向が見られるという。
男性名詞:大きい、硬い、角張っている、・・・
女性名詞:小さい、柔らかい、丸い、・・・、など

この調査は言葉だけでなく、写真でも同じ傾向になるそうだ。
この事例も、名詞のジェンダー分けが、人の連想記憶に影響を与えている例と言える。


最終的には、言葉は思考に影響を与えうるがその度合は限定的だ、という、一周回って出発点に戻ったような、あまり驚きのない結論になったが、そこまでの過程が面白い。


先人たちの珍説、暴論をユーモアを交えて、時には辛辣に切り捨てる、筆者の自由な筆っぷりが気持ちいい。登場する学者、研究者たちもとてつもなくユニークで、変わったエピソード満載。


明解な文章は著者原文によるところだと思うが、訳も素晴らしいこと付け加えさせていただく。

 

オフライン・トーク

さてと、ここからは、オフライン・トーク

 

言葉の力って凄いな、と思う反面、安易な使い方は危ういなとも思う。

 

ある出来事を言葉にしたら、その人にとってその出来事の意味が確定する。

確定させて白黒つけた方がいいこともある。

気に食わないことがあった時も、言葉にして、ああ俺は今猛烈に腹が立ってるな、と呟いてみると、何だかそれほど大したことでもないな、ちょっと腹が減ってるせいかな、と思えたりするから不思議だ。

 

その一方で、青と緑と黒が混ざったような海の色を見ても、「海は青い」と言われてたら、「青」としか記憶できない。

 

アナログデータをデジタル化したみたいに、曖昧な部分が抜け落ちたら、伝達効率が上がって、記憶領域の節約にもなるけど、それで全部伝わってますか?

 

生の思考や感情を直接やり取りしたり保存できないから、それを言葉に置き換えて、交換、ストックする。

まるで、物々交換から貨幣経済に移行したみたいだけど、お金にならないものには価値がない、ってことになりゃしませんかね?

 

 

 

「さよならを言うのは、少しだけ死ぬことだ」 春樹センセ訳で、少し優しくなったマーロウに二度目の恋をした


あらすじ

私立探偵フィリップ・マーロウは二度酔っぱらいのテリー・レノックスを助けた。
億万長者の娘シルヴィアの夫だったが、どこか暗い陰があったテリーとは何度か逢ううちに互いに友人として惹かれ合う。しかし、三度目の危機は抜き差しならぬものだった。
ある夜テリーがマーロウのアパートを訪れ、メキシコ行きを手伝って欲しいと頼んできた。明らかにおかしな様子であったが、マーロウは何も聞かずテリーを連れていく。
戻ってきた彼を待っていたのは刑事たちで、妻殺しの容疑をかけられたテリーが国外に逃亡するのを手助けしたとしてマーロウを拘留する。友をかばい黙秘を貫いたマーロウだったが、そこへメキシコからテリーが罪を認め自殺したという報せが入り、マーロウは釈放される。
果たしてテリーは本当に妻シルヴィアを殺したのか?
別の調査を依頼されたマーロウは、それがテリーの過去に繋がるものと知り、調査に乗り出した・・・

こんな人に読んで欲しい
◇クールでタフな男に憧れる男性
◇渋いオジサマ好きな女性
◇都会のバーでカクテルを楽しむのに憧れる人

感想
探偵マーロウはハードボイルド小説の行動的なタフガイ・ヒーローには違いないのですが、内省的な面も併せ持つ複雑なキャラクターです。家族はまったく描かれず友人も少なく、チェスとクラシック音楽を好み、依頼人の秘密を守るためには脅しにも屈せず、その一方で彼が気に入らないと思った依頼人には報酬を突き返すような、自分の中のルールにのみ従って行動する、孤高の探偵です。

皮肉とウィットに溢れた比喩やピリッとした気の利いた台詞など、その影響から多くのキザ野郎を生み出しました。探偵の真似をして、トレンチコートに身を包み早い時間のカクテルバーでギムレットを頼んだ人は私だけではないはず。

清水俊二訳『長いお別れ』との比較は色々と論じられています。
村上訳は、いわば、後出しジャンケン、なので、清水訳との良し悪しを云々するのはフェアではないと思いますが、あえて翻訳文の違いを言うならば、清水訳が短いきびきびとした文章なのに対して、村上訳は、もう少し言葉を足して原文のニュアンスを丁寧に伝えようとしている、くらいでしょうか。

マーロウの一人称で書かれているので、その文体はすなわちマーロウというキャラクターの造形と直接的につながってきます。

清水訳では、タフなキャラクターの「強い」面が表に出ていて、それが短文、ぶっきらぼうな物言いで上手く表現されていました。
一方の村上訳では、マーロウの強さと弱さ、寡黙で行動的な表面に隠されてはいるが、知性と教養、感傷的でウェットな感情を持つキャラクターとしての造形を感じさせる言葉使いになりました。

私のように清水訳で慣れ親しんだ方は、村上訳のマーロウは少し優しくなってイメージと違う、と思われる方も多いのではないかと思います。

このような翻訳による違いが世間で話題になるほどの本はそうはありません。それだけ本書が読者や後年の作家からも長く愛されている証拠でしょう。